第四回 「捨戒の便法」から成功の法則を読み解く
「戒」は破ったときが問題
たとえば禁酒、あるいは禁煙を誓う。しかし、親しい友人に誘われれば、つい断りきれずに「ちょっと一杯」と禁を破り、酒を飲めばついつい煙草にも手が出る・・・
このような「戒」は守ることよりも、それを破ったときがむしろ問題です。
「戒」を破ってしまったからといって、落ち込んで物事を投げ出したり、あきらめたりしてしまうことは禁物です。完璧に守りきれないのが人間であり、人情なのです。
ダメだ、と一方的に落ち込むのではなく「破戒」せざる得ない人間の弱さを自覚するところに、むしろ意味があります。そのときに再び「戒」を持とう、少しでも向上しようとひるがえって考え直せば、それでいいのです。そうした積極的で前向きな意思が、自己実現への第一歩だからです。
破戒は常につきまとう
原始仏教(小乗仏教)の用語に「捨戒の便法」というのがあります。
原始仏教の信仰グループに入ったある比丘(びく)(出家僧)が、座禅の修行中に美しい天女の誘惑を受けました。幻想ではありましたが、その比丘は幻想の誘惑に負けて姦淫を犯してしまい、それを恥じた彼は釈尊に打ち明けます。彼は比丘としての資格を剥奪され、グループを追放されなければならなくなりました。
釈尊はそう決定はしたものの、その比丘の反省する姿をみて、特別措置をもってグループに留まるようにはからうことにしました。
それから、釈尊はそうしたケースがその後も生じるのでは、と考え、ひとつの方法を考えました。「戒」を破った比丘が「私は戒を捨てました」と告白することによって、自動的にグループからはずれ在家の信者となります。そうなると比丘でないからグループからの追放という罰は受けないで済みます。しかる後、再び受来し比丘となることができます。ただし最初の一歩からのやり直しではありますが。
こうして釈尊は人間としての弱さゆえに「破戒」し、しかもなお向上心を失わない者を救済する策を施したのです。それが「捨戒の便法」です。
ルールはルールのためではない
極限すれば「戒」とは破るためにあるといってもいいでしょう。「破戒」の自覚、弱さの自覚は自分自身への内省の糧となり、深い安静な精神に向かう一里塚となるからです。
つまり「破戒」とはいかなる場合でもつきまとうもので、ちょっとくじけただけで、願望や目標を放棄していたら成功はおぼつきません。
また、「戒」すなわちルールとは、あくまでも成功のためのルールであって、ルールのためのルールではないことを忘れてしまうと、ルールのみに縛られてそれ自体が成功への足枷となってしまいます。